<第0302号 2006年5月28日(日)> 実りの場所 ナスの紫の花は 実をつける花 実りの場所は いちばん近くの 光満ちるなか ジャガイモの白い花は 実をつけない花 実りの場所は いちばん遠くに離れた 真っ暗な土のなか どんなに目立たぬところでも どんなにひそかなところでも 実りの場所は違うけど いつもしっかり堂々と 大きな太った実のために 今日と明日を生きている * 挿一輪 * ジャガイモは土の中です。 ナスやキュウリのように、地上にはなりません。 なにを今さら当たり前のことを、と思われますか。 家の周りには、まだ畑が残っているところが多いのですが、 ふと通りかかったら、ジャガイモの白い花が咲いていました。 かわいい花なので、好きなのですが、 そういえば、じゃがいもの花には、実がなりません。 ナスやキュウリは、花が咲き散ったあとに、実がなります。 いっぱいの陽の光を浴びて、誰の目にもわかるように、 太って大きな実がなります。 ジャガイモは、根茎ですので、 土の中で人知れずに大きくなります。 実りという意味では同じなのに、 見た目にすぐにわかる実りと、 掘り出して初めてわかる実り。 でも、実りには変わりありません。 ジャガイモもナスも同じように大切な収穫です。 咲いている花の近くで、実りを得るものはわかりやすいです。 暗い土の中で実りを得るものは、人知れずにわかりにくいです。 でも、どちらも、確かな、実りです。 見えても、見えなくても、実りは結べます。 実りの形。 それぞれに違います。 だから、 決して、 あきらめないで。 だから、 決して、 比べないで。 わたしには、 わたしの。 実りの、 か・た・ち。 胸を張って育ててください。 そして、 だれもが、 実りを育てていることを、 忘れないでください。 見えないから。 それだけで、 決して、 小さく見ないでください。 実りの場所が、 それぞれに違うけれど。 生きていることは、 かならず、 実りを育てていること。 わたしは、そう、信じています。 <第0301号 2006年5月21日(日)> わたしのかたち わたしのかたちは 外に問うてはいけない わたしのかたちは 内に問わねばいけない どんなにそしりを受けようとも どんなに哀しみを受けようとも 激しい雨がやんだあとの 微笑みさえ聞こえる静寂に ふるえるこころを 眼の高さに取り出して まっすぐに まっすぐに 問わねばいけない * 挿一輪 * とても自由で、とても辛いとこ。 とても身近で、とても遠いとこ。 「わたし」というものの、理不尽。 まるのまま受け入れてしまえば、それですむのに、 どうしても、ちらっと周りを見てしまいます。 知識や情報は、「わたし」の糧になるはずなのに、 間違えると、迷った子に目隠しを与えてしまいます。 あふれ出る雑音を消すためには、 「わたし」自身に気がつくためには。 まっすぐに、「わたし」と向き合うことができれば、 きっと尋ねることができるはずです。 問いは、答えに向かって歩みだす第一歩。 特に、この問いは、とても大切な一歩です。 「わたし」はどんな時でも、「わたし」でいいの? 「わたし」に正直に生きることができるのなら、 いつか、激しい雨はやむはずですから。 <第0300号 2006年5月14日(日)> 宝物 まあるい小石が 落ちている 道端にポツリと 落ちている ひときわ強い五月の風が さつきの花を一輪はこび 小石はかぶった ピンクの帽子 だあれも気づかない小さな石と だあれも気づかない落ちた花と 小さな出会いが作り出す 世界でひとつの宝物 * 挿一輪 * さつきの花。 鮮やかなピンクや紫、白。 花も終わりになって、 強い風が吹いてくると。 さつきの花は、円錐形の花を落とします。 時々、その落ちた形が、 小さな帽子のように、見えることがあります。 丸い小石の上に落ちた、 さつきの鮮やかな花。 ピンクの帽子をかぶった小さな石の顔。 思わず足を止めて、しゃがんでみました。 何の変哲もないただの小石。 もう木から離れた落花。 だれも振り返らない小さなものたちが、 こうしてふと足を止めさせたのはなぜでしょうか。 もしかしたら、 輝く小さな宝物は、 何気ない組み合わせで、 できているのでは? 身近にあるもので、 そんなステキな宝物を見つけてみませんか? <第0299号 2006年5月11日(木)> しんりょく どんなに ふるい たいぼくでも しんりょくは うまれたばかりの ちいさなめと おなじいろ どんなえだからでも こぼれてくる あざやかな いのちの かがやくことば * 挿一輪 * 立夏もすぎ、新緑の季節です。 小さな木も、大木も、 鮮やかな緑の葉を伸ばしています。 今年初めて、 地中から芽を出し、 木としての一歩を踏み出したもの。 樹齢を測るのが大変なほど、 古い大きな森のような樹。 よくみると、 その新しい芽や葉の色は、 変わることのないほど、 どちらも鮮やかです。 多少、樹勢が衰えていても、 噴き出した新芽の色は、 いのちの確かさを伝えてくれます。 木の新緑に限らず、 いのちは生きている限り同じです。 決して引けをとることはありませんし、 自らを卑下することもありません。 どんなときでも、 まっすぐに、 新しい芽は伸びてゆきます。 いのちの力を信じて、 自らの手で、 新しい芽を育ててゆきたいですね。 <第0298号 2006年5月7日(日)> いきている あさ おきて みなれたかおが そばにあること よる ねるときに ききなれたおとが そばにあること にげることも かわることも あたえることも できないけれど わたしは いきている ただそれだけで なみだがこぼれる ふしぎ * 挿一輪 * 特別に変わったことはありません。 いつもと同じ部屋の中。 カレンダーを意識しなければ、 どこが違うのでしょうか、 まるでクイズの間違い探し。 当たり前のように、くりかえされる日常。 いつもそこにある、見慣れた顔。 いつも聞きなれた、意識しない音。 生きていることの不思議。 それは、だれもが、 意識することはなくても、 こころのなかで、いつも思っていることです。 だからこそ、 その不思議が、 ありありと事実として、 なにかの機会に意識された瞬間に。 こぼれるのは、 涙。 深く息を吸って、 天からもらった、 笑顔。 生きている。 こんなにあたりまえで、 こんなに不思議で。 こんなに無意識で、 こんなに危うくて。 そんな自分自身が、 こうして生きていることを、 たしかめられる。 たったひとつだけのいのち。 ほんとうに、不思議ですね。 <第0297号 2006年5月4日(木)> うみ って うみ って なんだろう まばたきを わすれてしまう つぶやきを わすれてしまう ふりかえることを わすれてしまう うみ って なんだろう * 挿一輪 * 海を見ると体が止まります。 じっと見つめてまばたきも忘れ、 ことばも忘れて無口になります。 振り返るのも忘れて、 ただじっと海に相対します。 砂浜の波打ち際はなおさらです。 しゃがみこむと、 吹いてくる風にからだをまかせて、 ただじっと、 くりかえす波の音を聞いています。 何かを忘れたいとか、 何かを祈りたいとか、 時間の流れさえ忘れ去って、 ただ、そこにじっといます。 携帯がなくても、 音楽がなくても、 本がなくても、 気になりません。 海を前にして、 海って何だろうって思います。 これほど自分を奪われて、 これほど自分を忘れられて、 それでもなお心地よい思い。 海は、必要なものを、 すべて含んでいるのかもしれません。 そばにいるだけで、 そばにあるだけで、 ほかに何もいらなくなる存在。 あなたは、 海って何だと思いますか? |
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