<第0350号 2007年4月29日(日)> たんぽぽ 小さな地上の太陽 たんぽぽ 片すみに はいつくばるように 笑っている どうしてこんなところに 咲いているの 風が運んだ 生きるひとつの選択 受け入れて ここがホーム たんぽぽ もっと背伸びしても 大丈夫なのに じっと待っている そのひとときを 純白の王冠を高くかかげ 旅立ちを見送る母になる日を * 挿一輪 * 一時、「根性大根」が話題になりました。 道路の割れ目や、塀のすき間からしっかりと生えているのを見て、 思わず「がんばれ」と、声をかけたくなるのでしょうか? たんぽぽの花を見ていると、 もう、根性を超えているように思います。 なんでわざわざこんなところに、と、 驚くような場所にまで咲いています。 風が種を運び、偶然そこに着地したからなのでしょうが、 どんな環境でもしっかりと根を張り、 黄色の、小さな太陽のような花を咲かせます。 場所があまりに悪いところでは、 それこそ、地に這いつくばるように花を咲かせるたんぽぽ。 でも、そんなたんぽぽが、思いっきり背伸びして、 高々と、自らの茎を伸ばすときがあります。 真っ白な綿毛、王冠にも見えるその正体は、種。 少しでも、遠くへの旅立ちを後押しするように、 その茎を長く高く持ち上げます。 たんぽぽは、 我が子を送り出すお母さんになります。 生き物の、命を巡る不思議な動き。 気をつけてみていれば、 雑草にも、教えられることがいっぱいですね。 <第0349号 2007年4月22日(日)> こんなに広い さしている 空色のカサを 腕いっぱいに伸ばして 雨空に おしつけた もっている 空色のゆめを 想いいっぱいに広げて 明日へ おしつけた ほら こんなに まわりが 広い * 挿一輪 * 雨の日、カサをさしていると、 空間が狭くなった気がします。 ただ、自分の上にカサをさしただけなのに、 不思議と窮屈な気持ちになります。 空に、ジャンプできるわけではないのに、 人間は、頭上にも空間が必要なのでしょうか? 持っているカサを腕いっぱい伸ばして、 空間を作ってみると、 雨には濡れますが、気分がよくなってきます。 ちょっとした茶目っ気きぶんで笑いがこぼれます。 あなたの持っているゆめも、 ただじっと秘めていないで、 腕を思いっきり伸ばすように、 明日に向かって広げてみませんか? <第0348号 2007年4月15日(日)> 受け皿 わたしの あふれる想いを そのままぶつけたら わたしは 狂ってしまうから あふれてもいい こぼれてもいい ほんの一部分でも受け取って いっとき じっと見つめるだけの 小さな 受け皿がほしい こんなにも 熱い想いだから そんなことで さめてしまうことは けっしてないはずだから むしろ 想いをもっと深めるための たしかめるための 受け皿をもつことに 誇りをもてるはずだから * 挿一輪 * 気持ちをまっすぐにぶつけることは必要です。 けれど、時には想いが強すぎることで、 自分を狂わし、コントロール不能におちいるかもしれません。 いったん自分の想いの形を、 自分自身で見つめなおすことが、暴走から逃れるすべかもしれません。 緩衝帯としての小さな受け皿を用意するのも、ひとつの方法です。 想いを別の形に変換して、別の形から見直してみる。 第三者の目になって見たり、相手の立場になってみたりもできます。 受け皿の形はさまざまです。 絵や音楽でもいいですし、文章でもいいと思います。 詩や短歌など、 古来から数え切れないほどの想いを吸収してきました。 想いがつのって、狂気一歩手前までゆくことがあるかもしれません。 ぎりぎりのところで、 自分を救い、生きている誇りをなくさないためにも、 どんな形でも、受け皿をひとつ持ちたいものですね。 <第0347号 2007年4月8日(日)> 生まれ変わる 生まれるときと 死んでゆくときと いのちには二つの記念日がある 生まれる前は だれにも 知られなかったけれど 死んだ後には たくさんのいのちのなかに 生まれ変わる ときどき ふと思い出す いつも そばにいるように感じる そう それぞれの 記憶という 新しいいのちのなかで * 挿一輪 * 生まれ変わる、というと、 前世があって、来世があって、という話になってしまいます。 両方とも実際に見たわけではないので(あるとすれば)、 どう考えてよいのかわかりません。 ただ、いえることは、記憶のなかでは生きている、ということです。 もう亡くなって、会うことのできない、 おじいちゃんやおばあちゃん。 でも、ふと思い出せば、写真など見なくても、 その笑顔や声、しぐさまでが、目の前で見ているように再現されます。 記憶や思い出、そういってしまえばそうですが、 実際、こうして自分のなかに、生きているからこそ、 いつでも、ありありと思い浮かべられるのではないのでしょうか。 たとえば、小さな心遣いや笑顔。 当の本人でさえ忘れてしまったことが、 いつまでも、他のだれかの印象に残っていることがあるように。 「生きる」ということは、 ひとつのいのちのなかでだけ、 決して、完結するものでは、ないことだと思うのですが。 <第0346号 2007年4月1日(日)> 釣り日和 風の強い日 流れてくる雲に 指先を伸ばして 小さな目をつけてみた 風の強い日 流れている雲に 指先を振って 一本の線を引いてみた 風の強い日 流れてゆく雲に 指先をまげて 小さな釣り針を作ってみた 今日は 大きな獲物がいたんだが もう少しのところで 取り逃がしたよ からの クーラーボックスに 大きな 雲のさかなの記憶をつめて 長い長い 影踏みをしながら 遠回りをしながら 帰ろうか * 挿一輪 * 空中でも、さかな釣りはできます。 春めいた青空に、気持ち良さそうに流れる雲。 子どものころによく遊びませんでしたか。 あの雲は、さかな。 あの雲は、うさぎ。 小さい子どもの雲がくっついて、親子。 風に乗って、少しずつ形を変えて、 さかなだったはずが、いつのまにか龍になっていたりして。 重いコートや、大きなダウンを脱ぐと、 体が軽くなって、のびをしたついでに、空を見上げる。 しばらく、そんな空の雲で遊んでみませんか。 釣りに行って、一匹もさかなが取れず、 からのクーラーボックスを持って帰っても、 さまざまな形のさかなたちの思い出が入っていれば、 とっても楽しい一日です。 |
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