<第0524号 2010年8月29日(日)> 入道雲 まっすぐ 夕陽を見ている 入道雲の 西のふちに腰かけて 冷えたサイダーを コップに注ぐ グラスで踊っている 群青色の泡 止まっているのは 遊びすぎた南の風だけ あとはみんな 動いている 小さな心臓だって 大きな地球だって * 挿一輪 * 夏の空は入道雲。 むくむくと広がってどんどん大きくなってゆきます。 昼の水平線近くや山の峰近くに縁どるように並ぶ入道雲。 見ているこちらまでワクワクしてきそうな開放感です。 夕陽が沈むころの西側だけ朱に染まった入道雲。 どこか家路を誘うような郷愁感で鼻の奥がツンとしてきます。 それにしても入道雲の端に腰かけてみたら、 どんなに眺めのいいことでしょうか。 下界から見ているのと違って夕陽はきっとまぶしいほどに大きくて、 からだいっぱい朱色の時間で染められることでしょう。 子どものころに戻ったように、 入道雲を首が痛くなるまでじっと見ていたいものですね。 <第0523号 2010年8月22日(日)> いま 正面を向いて 生きていたら 深い悲しみに 会うことになる 一歩道端にどいて 生きていたら 悲しみの横顔を 見送ることになる 草むらにしゃがんで 生きていたら 悲しみも知らずに 眠ることができる * 挿一輪 * 土手の上の細い道を歩いていたら、 向かいから作業用車がゆっくりとやってきました。 伸び放題の夏草を刈るための車ですが、 土手から一歩降りてやり過ごすしかありません。 通り過ぎるのを横から見ていましたが、 作業車をこんな近くで見ることはないので、 子どものようにしっかりと見てしまいました。 日常もまた、歩ける道は多数あっても、 歩く道は限られているのかもしれません。 正面からやってくるのが作業車なら、避ければいいのでしょうが、 大きな困難なら途方にくれて立ち尽くすかもしれません。 でもそれが怖くてじっと隠れていたなら、 いつまでたっても進むことはできません。 まっすぐ日常の出来事と対峙することが、 大変なようで唯一の解決策なのかもしれません。 それに、やってくるのは、困難や悲しみだけとは限りません。 大きなチャンスや喜びならば、 それこそ大きく腕を広げて受け止めたくなります。 そんなとき隠れていたら、 大きなチャンスや喜びまで逃してしまい、 悔しい思いをすることになってしまいますから。 <第0522号 2010年8月15日(日)> たったひとつのこと 花を咲かせて 種を飛ばすこと たんぽぽの たったひとつのこと 樹液をすって ひたすら鳴いて せみの たったひとつのこと 朝昇って 夕沈んで 太陽の たったひとつのこと 寄せて返して 寄せて返して 波の たったひとつのこと 抱えきれないほど 忘れてしまうほど 途方にくれるほど 持ちすぎている あなた もういちど 見つめて たったひとつのこと * 挿一輪 * 両手の掌を見てください。 あらためて見て、大きいですか、それとも小さいですか。 その掌に乗る大きさには限度があります。 その限度は、これだけ、ですか、こんなに、ですか。 周りには物があふれています。 物だけではありません、さまざまな関わりあいや、想いや、 息が詰まりそうなほど濃厚な空間に、私たちは生きています。 あまりに何もないと不安で動けなくなってしまうのに、 あまりにありすぎても足が止まってしまう矛盾。 取捨選択は時には極端な行動になり、 だれかが右を向けばいっせいに右を、 鳩のように、一羽飛び立てば一斉に後を追って飛び立つように。 何か変だと思ったら、いつもの自分と離れていると思ったら、 疲れてしまっていると感じたら、 一度基本に戻ってみることもひとつの方法ではないでしょうか。 そして、たったひとつのことを考えてみる、想ってみる、 寄り添って、並んで、しばらく座ってみる、 ぼんやりとでいいから見続けてみる。 たったひとつのこと、って、むずかしいですか。 でも、たったひとつのこと、が、見つめられるようになれば、 そこから、また、自分自身の本質が見えてきます。 なぜならば、自分自身の存在そのものが、 たったひとつのこと、の、源なのですから。 <第0521号 2010年8月8日(日)> 立秋 雲が白いのは 赤や青や緑や すべての光が混ざっているから あの人が輝いているのは 悲しみや喜びや すべての思い出が混ざっているから 見上げる瞳の 水平線に あますことなく 映っている青い空 ぽかりと浮かぶ 真っ白な雲は 透明なストローを通して 吸い上げられる こころ * 挿一輪 * 夏の盛りに巡ってくる立秋。 グラジオラスやカンナの花にも厚く吹き抜ける潮風にも、 まだまだ秋の気配を見つけることはできません。 網戸にとまっているせみのシルエット、幻のように舞う蝶の羽、 夏休みの思い出と共に長いような短いような不思議な葉月、 特に光の強さと見上げる青空の印象は忘れられません。 涙や笑いといった、その時々の感情はめまぐるしく変わりますが、 それらが年月と共に積み重なってくると、 まるで何もなかったかのようにしんと静まりかえります。 さまざまな光が集まると白になってしまう光の三原色のように、 私たちも数え切れないほどの思いを抱えながら、 こうして夏空の真っ白な雲を見上げます。 いのちはいつか透明なストローを通して、 あの雲に昇華してゆくのではないか、と、 小さなおとぎ話のように、 こころの片隅に伝えられているのかもしれませんね。 <第0520号 2010年8月1日(日)> 風 吹き抜けてこそ 風なんだ どんなにきれいな ガラスのケースでも どんなに透明な こころのなかにも とどめてはいけない とどめることはできない 器がないからこそ 風なんだ いのちの ほんとうの形は 風に似ていると 思わないかい * 挿一輪 * 暑い夏でも吹き抜ける風があると少し元気がでてきます。 木陰や水の周りでは涼しい風にほっとすることもあります。 高原の冷たく爽やかな風など何かに詰めて持ち帰りたくなりますが、 風は吹き抜けてこそ風です。 止まってしまうと消えてしまいます。 考えてみると生きているわたしたちも、風のようなものかもしれません。 虫たちや鳥、小さな草花まで、いのちは一瞬それぞれの形に留まっても、 次の瞬間には吹き抜けて別の世界に飛んでいってしまいます。 形あるものに長く残しておこうとすると、 止まってしまった風が、風でなくなってしまうように、 いのちはいのちの流れを失ってしまうのかもしれません。 無常ということばは、風と同義語なのかもしれませんが、 駆け抜ける日常のなかで、 必要以上に固執することなく、 いのちの風として吹き抜けてゆきたいものですね。 |
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