2011年4月のこびん

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<第0558号 2011年4月24日(日)>

       笑み

         タペストリー
         どこまでも
         おひさまにひろげ
         昨日までの湿ったこころを
         しっかりと虫干し
         
         羊模様の
         やわらか影は
         まっしろ雲の幻灯機
         消してごらん
         バックライトを
         
         ほろろほろろろ
         ほろろほろろろ
         
         名前も知らない
         鳥だというのに
         そんな気がしないんだなあ
         
         いまさっき
         あったばかりの
         あの人の
         笑みのように


   * 挿一輪 *

 春の野原は一枚のタペストリーのようです。
 
 野の草草がそれぞれの色の花で染めますし、
 草の緑色でさえ、
 深い味わいのあるグラデュエーションで同じ色はありません。
 
 日向と日陰、立ったり座ったり、
 風の向きや聞こえてくるのどかな音によっても、
 その色合いは変わってきます。
 
 ひとつのものを見ていても、
 見る人によってまるで違うものに見えてくるはずです。
 
 そのなかでいちばん気持ちよく見える人が、
 きっといちばんの理解者になるのでしょう。
 
 春の野はそんなこころの試金石のような、
 魔法のタペストリーなのかもしれませんね。


<第0557号 2011年4月17日(日)>

       春色日記

         ひたむきに
         いまをつむぐおりこむ
         
         大工の音
         桜風の匂い
         めまぐるしい陽の踊り
         
         いぬふぐりのはじらい
         からすのえんどうのひそか
         なずなのつや
         たんぽぽのき
         
         刺繍のように
         そこここかしこ
         おいてなでてなだめておして
         
         わたしという
         一枚の生地の上に
         うっすらと
         透明な鳥の鳴き声を
         砂絵押し花釉薬
         
         日記代わりの
         タペストリー


   * 挿一輪 *

 毎日の記録というと日記が思い浮かびます。
 もうずっと何年も書き続けているという人や、
 今年もはじめたけれどもう書かなくなってしまった人、
 思いついたときにふとメモ代わりに書いておく人。
 
 それぞれの日々の記録はその人だけの体験する世界なのですから、
 何かの形で残しておくのも生きている証になります。
 
 でも、日記帳を広げて、さあ書こうと思うから、
 めんどうくさくなる人も多いのではないでしょうか。
 
 日記という形でなくても、
 その日の自分をどんな形でも残しておけるなら、
 ことばに限らなくてもいいように思います。
 
 生きている証というものは、
 日常のなかでは本当に目立たないことなのですが、
 いざとなると、
 これほどなつかしく思い返すことはありません。
 
 それほど生きている毎日とは、珠玉の集まりなのです。
 何の変哲もない石ころに見えて、
 光の当て方で、これほど美しい宝石はありません。
 
 それは、毎日の積み重ねを、大切に綴っている人だけに
 そっと贈られるご褒美なのかもしれませんね。


<第0556号 2011年4月10日(日)>

       さくら

         たとえようもなく
         さくら
         春色の息をはく
         
         えもいわれなく
         さくら
         うたたねは陽だまり
         
         透明な息吹のみなもと
         大地から花芯へと
         昨日から今日へと
         
         送られ押され吸われて
         さあをの吸い取り紙
         まわたの溶けない羽
         
         さくらさくら
         捨てられないことばは
         だから
         
         風になっていのちのふりを
         音になっていのちのふりを
         
         さくらさくらさくら
         ただ
         ひたむきに


   * 挿一輪 *

 待ちこがれたさくらが咲きました。
 いつにもましてその姿にはひたむきさを感じます。
 
 空高く太陽に照らされたさくらの花びらもいいですが、
 太い茎の根元近くに、
 まるで人目を避けるようにそっと開く小枝の数輪が好きです。
 
 気をつけていないと手折られそうなはかなさが、
 堂々とした幹の黒に引き立って、
 なおいっそう可憐な想いをひきたてます。
 
 考えてみれば、花だけが先につくソメイヨシノは、
 葉と一緒に咲く山桜に比べればずいぶんと不思議な花です。
 
 それをいさぎよいとみるか不憫とみるか、
 満開のこぼれんばかりの花を狂気とみるか、
 この世のものと思えないほど粋とみるか、
 人はそれぞれの生き様に合わせてみるものなのでしょう。
 
 ただじっと見ていると、
 まるで自分の生気が花に吸われ、
 さ青の空に吸い取られるように感じられるのは、
 悲しみもやりきれなさもすべてゆだねて、
 見入ることができる、さくらの花だからこそかもしれませんね。


<第0555号 2011年4月3日(日)>

       大きさ

         大きさ
         とは
         あとからふりかえって
         うつくしいと
         感じることだ
         
         人の生きざまも
         ふりかえったときに
         大きければ
         大きいほど
         うつくしい
         
         天も地も
         だから
         大きく
         うつくしいもの
         
         たとえようもなく
         たとえようもなく


   * 挿一輪 *

 その場で感動することもありますが、
 後から振り返ってしみじみと感じることがあります。
 
 比較するものがそこにないということが一例ですが、
 目の前のことを受け入れるのに時間がかかることもあります。
 
 大きさを受け入れるには、自らの器も試されます。
 その大きさがわかるものだけが、
 対峙する自らをも含めて、
 うつくしいものが見えてくるのかもしれません。
 
 いままで感じなかったものをうつくしいと思うとき、
 昨日よりも少しだけ大きくなったのに違いありません。




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